なんだかよくわからないが、立派なウチュウ人として人間社会に適応するため、自分の行動を見直すことから始めることにした。 誰かと接する時の自分の対応を、できる限り客観的に観察するのである。 そしてこれは、超恥ずかしい。
ということで、近所の商店街にある書店にでかけた。 図書館に置いてないような専門的な発達障害に関する書籍を見て回ろうとおもったが、最初にとった本に3,800円と記されてあった。 さすが専門書である。 自分にはまだ早いようであった(家計的に)。
一般向けの本を一冊とってレジに向かい、ちゃんと視線を合わせるようにして(※)笑顔を準備して商品を受け取りつつ「どうも」と一声かけた。作戦成功である。
(※どう合わせればいいのかは、今でもよくわからない)
問題は普通の会話にあった。
上記の通り視線の合わせ方がいまいちよくわかんないのである。 話しかける時にスッと見ればいいのかずっと見ていればいいのか、どうもうまくいってないようにおもう。
もうひとつは、相手の表情が疲れているのか怒っているのか嫌悪しているのか区別がつかない。 同様に微笑みと愛想笑いの違いもわからないのであった。つまり、推測だけれども、相手もこちらをみて困惑しているとおもわれる。 なぜなら、こちらはこちらでその場にあった表情を瞬間的に表現するのが難しいからである。 あんまり気にしたことがなかったので分からなかったが、どうも感情を表情で表現できていないようにおもった。
そして、肝心の会話部分については非常にマズイことが判明した。 一言めが「アレは」になっていた。 しかも身振りも特に無いので、受け手は多種多様な「アレ」を想像して身構えてしまうのである。
自分の中にあるイメージをそのままアレと表現してしまうので誤解が生まれるのであろー。 イメージを説明するという手順を省いてしまっているようだ。 せっかくイメージがあるのだから、すこし落着いて「あの料理についてきたナイフですが、アレは...」と言うべきなのだ。 これはもうどうにもまったく言葉が足りてないのである。 しかも「あ、じゃあ、また・・・」では何がまたなのか相手にサッパリ伝わっていないと言えよう。 「あ、じゃあまた次に来たときにあれば一つ下さいますか」という行動のイメージが超短縮して言葉に変換されているのであった。 こういうことの積み重ねで色々な誤解が生まれていたのかもしれない。
視線についてもうひとつ。
例えば、考え事をするときには上を向いたり横のほうをみたり、いわゆる視線を泳がせるような感じになるかとおもう。 ウチュウの人たちは会話をする時、どうもそのような感じで話しているんではないだろうか。 僕はそうなってました:-b。 ただし、そういう感じをチキュウの人たちはとても嫌悪するということを忘れないようにしたい。 うまくできなくても、意識的に視線を合わせるようにすることで、チキュウの人たちもいくらかは安心して話を続けることができるとおもう。多分だけど。 目を合わせる意味がよくわかんなくても、それが相手の不安を取り除くことに繋がるなら、それはそれで思いやりに繋がるんではなかろーかとおもった。 でもやっぱ違うのかも。 とにかく、客観的に自分の会話を観察してみたところ、これはひどいという結果になったのであった。
結果は結果として、心がけと工夫しだいで、いくらかは相手が不安にならないような方法をみつけられそうかななどともおもうのであった。