ハッピーホリデー

月末のお支払いに出掛けようとしたところ、背中にヴィヴィッと来るものを感じて業務不能に。そして神はこうおっしゃいました 「どさくさに紛れよ」(うそ) 本日休業につきハッピーホリデーなり。
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写真は本文とは特に関係の無いペリアンキッチンの図

カーネルとブートパーティション

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image Linux OSも他のOS、WindowsやMacなどのようにインストール時に自動でHDD領域を作成してくれる機能があります。 そのとき、起動時に必要なデータを収めるbootパーティションも自動で作成してくれるんですが、必要最低限の容量で作られていた場合、次のバージョンへのアップグレードでインストールが失敗してしまう事があるかもしれません。 これはbootパーティションに入ってるカーネルの容量が年々大きくなってきているために起こる問題なので、既存のシステムをアップグレードする前に一度パーティション容量の確認を行なっておくのが安心です。 という事を今朝の自分に言い聞かせておきたかったです… -過去の経験に学ばない人の日記より-  (なんかOSをアップグレードするたびに同じ失敗を繰り返しているなあとおもいました) ※写真はGpartedというパーティション編集ソフトでHDD内のパーティションをリサイズして再配置しているところです。ちなみに復旧したいOS(ディストリビューション)にLiveCDがある場合はそのOSのLiveCDから復旧するのが問題が起こりにくくて良い感じです。

のみでフォローを

TwitterもtumblrもRTとリブログの量が人の読める範疇を超越していて、惜しむらくもすべてに目を通す事が出来なくなりました。 SNSはアカウント同士の繋がり次第で利用者の受ける印象が大幅に違ってくるモノかなとおもっています。ぼくはtumblrを使う時には投稿される内容の印象のみでフォローをしているのでタイムラインを見るのがとても愉快です。これはソーシャルな部分が比較的少ないからかもしれません。tumblrは別としてSNSのソーシャル的な使い方で良いところは旧知の方の近状に反応できることだと感じてます。さらにパブリックでソーシャルな良いところは共感する関心事へ反応できることだとおもいます。仕事の延長として見返りを期待した使い方を続けるとSNS疲れみたいな症状が起きるのかもしれません。 昔、友達の紹介で始めたfacebookは初心に戻って個人的にパブリックでソーシャルな使い方を続けることにしました。今は自動的にfacebookへ共有されているここの日記もfacebookページの方に変更しようと調整中です。 便利なものも用途に合わせて適切に使いこなせばさらに便利に使えるので、心地よく落ち着くようにアカウント整理を試みています。

ゴニョゴニョしたらサービス開始

ぼくの考えたさいきょうのハッカースペースを作っています。そして予算が足りないので現実にはたいへんよわいです。 ハッカースペースという名称や文化は海外からのもので、やや大雑把な解説をすると、ハッカーという名を真の意味で肯定的に捉えたクリエイターズスペースのようなものです。やや似たような概念としてギークハウスがありますが、こちらは技術者たちの集まるシェアハウスとしてのスペースが目的のものです。また、上記のハッカースペースから派生した電子工作やハードウェア作成中心のメイカースペースと呼ばれるものも現れ、Maker Fairなどのブームに乗って各地で発展を続けています。 ぼくの考えている現実にはまだたいへんよわいハッカースペースは、自ら学んで実践し続けていく知恵と技術のトレーニングセンターみたいな感じです。コンセプトはオープンソースとクロスプラットフォームで。 実はこないだナイショでオープンしたんですけど、全然準備できてないので机を削ったり磨いたりしています。もうちょっとゴニョゴニョしたらサービス開始する予定。

アカウントを分けたい病

まだ会社じゃないけど社と個人による情報発信の分離と統合を試みています。用途別にアカウントを分けたい病も相まってなかなかよい管理方法が見つからないところです。 物事に写真を添える日常のスナップ的なものはtumblrが便利で、スマートフォンで編集した写真の投稿と合わせてよく使うようになりました。twitterやfacebookでは人のストリームみたいなものを感じるとしんどいかもしれません。Google+は断続的に情報を共有していく場所としての可能性があるかもしれない。 複数のアカウントからなる情報発信の統合管理については、オープンソースとクロスプラットフォーム精神にみあう方法が見つかるまでもうしばらく試行錯誤してみようとおもいます。(公開される情報がその趣旨ごとのアカウントに向けて発信されることと、公開された情報を統合して閲覧できること)

公民館のようなもの

ぼくは日本の田舎で育ったので教会のような場所から得られるだろうとおもわれる感覚がよくわかりません。アメリカ人とおもわしき人が禅をくんでいる写真を見ると、そういった異なる文化の感覚をどこまで体現出来るのだろうかと不思議におもいました。 子供の頃、近所にちいさなお寺があってそこは公民館のような感じで使われていたようにおもいます。でもそれからしばらくして小さな町の小さな区画に二つの公民館のようなものができて、それにより小さな町の小さな区画がさらに分断されたような記憶があります。ただ、実はその時はあまり興味がなかったのでうろ覚えで。 誰かがどこかで考える理論的に作り出された物事と、様々な場面や環境で自然に発生する物事との調和を取れる妥協点みたいなものについてよく考えることが大切なのかもしれません。そしてそれは、今ぼくが考えるべきことでは全然ないですけどw(←仕事しろ!)